灰色のゲレンデ / 他2つ

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今は2024年の1月30日、23時07分。治らない頭痛と発熱から一か月が過ぎて、未だに健康な身体を2024年に持ってこれず。ようやく先週処方された薬を飲み終わったが、段々と自分の身体の感覚が鈍くなっていって、良くなっているのかが分からない。明日また検査をしに行く。

 

俺だけの2023年はまだまだ続く...

 

どうにか雪が解ける前に治ってほしい、春が来る前に。



/灰色のゲレンデ/


こんな身体になってから、自発的に外に出ることがほとんどなくなってしまった。毎日していた散歩もする意味がなくなったし。

 
いつも歩きながら何かを考える。基本的にはどうでもいいこととかばかりだけど、そういうどうでもいいことが急にいじらしくなったりする。ドーナツの穴の意味とか、明日の昼ご飯のこととか、したことのない競馬のこととか。でも今は、外に出歩くことがあると、「少しは良くなったか?」とか「やっぱりどこかおかしい」とか、身体の具合ばかり気にして、いつも通りの自分でいられなくなってしまう。だから用があるとき以外、外に出歩かなくなった。


こないだ、一日中家に引きこもって、特に何かをしたわけでもなく、ただベッドの上で痛みを確認していた。本当は治ってほしいのだけど、急に治ってしまえばそれはそれで怖いとか、意味のないことなんだけど。夕方の4時くらいになって買い物のために外を出ると、なんだか冷たい風がきもちよくて、胸が詰まってしまった。


はやく、よくなりますように。と思った。いつもより早く起きて、寒い息を吐くためでも、なんでもない日をなんでもない日で終わらせるためでも、理由はあとからたくさん出てくると思う。


そのときかどうか忘れたけれど、道端でタバコを加えてるオジサンがいて、頭の中にスキー場が出てきた。2月のゲレンデは受動喫煙の匂いがする。なんかわからないけれど、新雪じゃないから雪も若干灰色だし、空の色も水墨画みたいな顔してるからそういう雰囲気にのまれて見えない煙を吸った気になっているのかもしれない。実際のゲレンデはカップラーメンの香りだったかもしれない。でもカップラーメンもタバコと同じ仲間に見える。なんでだろ。そうだ、よく汚部屋の景色には大量の吸い殻と積まれたカップラーメンの容器があるからだ。。。

 

みたいにのどかに散歩するのが日課だったのにな。アーメン。



/ブランコのむこうで/


さも全く外に出ていないような書き方をしたけれど、実際には学校にも行っているし、いつもと変わらない生活を続けている。それにしたってつらいけどね。


今週の日曜日にはいつもより体調もよかったので、知らない街に行こうと意気込み、いつもより大きめのバッグに本とかメモ帳とか、絶対に使わないモバイルバッテリーとか入れて電車に乗った。ただなんか思ったよりも電車が気持ち悪くて2駅か3駅先で降りてしまった。それでも田舎だから、たった2駅でも知らない世界が広がっている。なかなかいいところで降りたと思う。


自分が存在しないことが当たり前の町はなんだか妙にソワソワする。自分がいなくても成り立っていることに、変に感動してしまう。住んでるところだって俺一人いなくても全然成り立つけど。自分の知らない幸せの形かあることが嬉しい。そういう幸せをもっと知りたいと思ってしまう。新築の家とかを見ると、幸福を分けてもらっているような気分になる。


自分は結構ありもしないことを信じていると思う。自分が勝手に決めた幸せを他人に当てはめて、いつかの自分に夢を見たりするし、あるなしに関わらず、見ただけで胸が震え思わず泣いてしまうような景色をいつか見たいと思ったりする。ありもしないこと、というか若干メルヘン脳なのかもしれない。


そういうことを考えていたら、やっぱり具合が悪くなって、公園のベンチで休んだ。素手で雪を払って座ろうと思ったら、意外に気持ちいいではないか。


…そうだ、雪だるまを作ろう。


誰もいない、知らない公園でひとり雪だるまを作った。さすがに手が冷たくって、小さめになったけれど。でもおそらく6、70センチはあるものを作った。ちゃんとボタンもつけて帽子も被せてね。


満足して再びベンチで本を読んでいたら、近所のジャリボーイが2人やってきて、雪だるまを作り始めた。きっと俺のよりも大きいものを作るのだろう。


小学生と張り合っているのが恥ずかしくなって、完成を見ないで家に帰った。今頃どうなってるかな、あの雪だるま。


/Chronicle/


先日、急に読みたくなってあたしンちを全巻集めた。正確には、古本屋さんに全部置いてなくて4冊足りなかったけど。


さいころからみかんちゃんが好きだった。デザインもかわいいし、ああいう子が好みなんだと思う。驚いたのは、好みの身長ドンピシャだった。そう、オイラは155センチが一番好き。理由は単純で、自分の身長が168センチだから、ちょうどいい。男女の平均身長が確か171と158くらいだったから、どっちも-3センチ。これならあんまり大きくない自分にも文句のつけようがない!と思っている。あとはおっとりしてるところが可愛かったりする。いいよね、そういうの。


昔から、「うちの3姉妹」だとか、主婦層が読みそうな子育てエッセイ的なものをよく好んで読んだりする。漢字も読めないくせに、幼稚園の頃、祖母におねだりして買ってもらったことを憶えている。「家族」の無限の可能性を信じて、これから何にだってなれてしまう子にもうすでに涙腺を緩めてしまっている。自分だってまだこれから何かになる立場のくせに。


なんだか、成長期が止まってしまったあたりから変に俯瞰してしまう癖がついてきた。ようやく終わりが来てしまった寂寥感と、見上げることの回数が減っていったことが原因だと思う。別にそんなおおきな身長ではないけれど、特段何かを見上げることが少なくなったと思う。そういうときに、きまって5歳の時を思い出す。


幼稚園はつくづく「こどもの王国」といいたくなるほどワクワクする。だけど、いつも通り過ぎる度スケールの小ささに驚く。昔は無限に広がっていた体育館も、今はもうプレハブ2つ分くらいにしか感じない。小さなころはいつも何かにワクワクしていた。自分には可能性というものでしか形成されていないんだ。とうまく言葉にできないながらにそう思っていた。これはみんなにもあると思うけど、小さいころは言葉にはできないことばかりで、実際には今よりもっと大人っぽいことを考えていたと思う。考えることで溢れかえってた日々をもう一度送ってみたい。


だからこそ、そういう教育・エッセイものが昔も今も変わらず好きなのだと思う。家族のカタチとか、溢れる無限のエネルギーとか、無償の愛だとか。

 

やっぱり、自分は見えない「いつか」の多幸感に夢を抱いている。

 

いままでのHAPPYな自分に、これからのHAPPY ENDを送ってあげられるように頑張ろうと思う。

 


今は2024年1月31日、午前0時38分。1月も終わるので今日はこんなとこで。


おわり