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1.
まずは自分を愛してください。そのあとに否定から入ってください。そうすれば自ずと求められるものが見えてきます。
そこからは延々と悩むだけです。
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2.
皆の個人の中にある永遠のテーマ、「自分」についてを考える時の大事なプロセスを今決めてみた。あながち間違ってはいないと思う。
まずは自分を愛する これは、どれだけ守られた戦いをこなしてきたかで変わる。自分が優れていても優れていなくても、価値あるものとして扱われてきたか、また自分視点のみで絶対評価が可能であるか、これで決まってくる。
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3.
その後は、まず否定から入る
自分には価値がある、と、他者にとって不必要である、の区別はかなり重要であって、自分にとっての他者と他者にとっての自分をイコールで今一度結び直す必要がある。自分は特別である、それと同時に自分は必要のない人間である、ということも割り切っておかなければならない。
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4.
日常のための創作論とは、1人で乗る電車にも物語があって、朝起きて散歩するのにも物語があるように日常を健全に送るための妄想のことである。
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影が伸び 引き止める理由もないけど 永遠が何かを知りたくて
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長い前置きを挟んだところで、最近の現状というか、悩みというか奥さんというか彼女というか…題名は「日常のための創作論」にしたけれど、特に書きたいことはない。強いて言えば、ここ数日の自分の不甲斐なさに打ちひしがれていて、何かを残さなければいけないと思い、文字を起こしている。
自分は、何も起こらない日常に好感を持っている。それと同時に寂しいという感情を持ってしまう。つまらない、とか面白くないとかではなくて、ただ寂しい。そういう日常を健康に送りたいがために何かを考える。創作をしたい。こんな俺の寂しい日常を文字にしても、ただカワイソウな寒い自虐をこする人にしか見えない。だから短歌を考え、下手くそなギターを弾き、壮大な絵を描こうとしてはくしゃくしゃに丸めている。
創作は小さなものでいい、ましてや自分で楽しむだけならば妄想でいい。人が創作したものは、自分自身のものになるまで時間がかかる。大きな感動を得たいなら、そこに辿り着くまでの必要なエッセンスを貯めなければならない。自分が他者に対して何かを創作する立場ならば、質の高いものを恒常的に生み出さなければならない。そんな力も、意志の強さもない。だから今日も1人で考える。あてのない、漠然とした、感動するなにかを。
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その点において、短歌は比較的"易しい"創作だと思う。31文字でそれっぽいことを考えるだけで、なんとなく様になる。
ふるさとの匂いを初めて知ったとき 少女期のあなたが蜃気楼
先月の半ばくらいに考えてたやつ。帰省しているときに、犬の散歩をしながら思いついた。「少女期のあなたが蜃気楼」とか、ぶっちゃけ自分でもよくわかっていない。ただ、実家の匂いが"実家の匂い"として認識したことに気づいて、子どもの頃の自分とずいぶんと離れてしまった。忘れたつもりじゃないのだけど、思い出さなくなったことが増えてきた。「少女期のあなた」は自分でも、あなたでもなんでもなくて、日常の中で顔を出す、誰かも知らない誰かなのだ。
その時の自分には、「せつなさ」が欲しかった。日常のための創作は、いつだって自分が欲しい感情を添えることで成り立つ。必要とする感情から自分を守るための作業に近しい。
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先々週くらいにアコースティックギターを買った。元々、エレキギターを持っていたのだけど、MOROHAを聴いていたら、思わずポチってしまった。
アルペジオという指で弾く奏法を初めてしてみたが、ピアノを習っていたおかげもあってか、そこまで苦ではなかったし、コードも元々押さえることはできたので、4日くらいでMOROHAの「バラ色の日々」を完コピできた。
元々、音楽は好きな方で、中高生のころは誰も知らないバンドとかをディグったりして、個性のない自分に強みができたみたいで誇らしかった。フジファブリックやくるりやandymori、毛皮のマリーズ、ハヌマーン、、、ストーリーにそういう昔のLIVE映像をあげては、自分の理想のイメージをみんなに押し付けていたと思う。陽キャなのに周りとは違う、どこかセンスのある奥行きのある男、、、みたいな思惑をもち、アホほど自分に酔っていた。
でも、それも日常のための創作だということに最近気づいた。今、自分がMOROHAを聴いて泣いてしまうのも、羊文学を聴いて悦に浸る17歳の自分も、曲の延長上にある自己の解釈で物語を作っている。結果はどうであれ、健全なアクションであることに変わりはない。
一度、作曲しようかと考えたこともあるけれど、ピアノをやっていたのに音感がなさすぎて諦めた。誰もが通る道を通ってきたことに、今なら恥ずかしさを感じない。
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5.
誰かのために、ではなくて自分のための創作をしてください。
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6.
嘘をつく必要はありません。本当に良いと思っているものを、自分の中にだけ集めてください。
集めたものに飾りをすれば、日常のための「誰か」への創作になります。
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創作論というより、ただの日記なんだけども。
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ああ今、自分が自分じゃないみたいに動く
とおいとおい記憶で
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家で遺憾無く才能を発揮する自分と、人と関わらず、マッチングアプリですら何もうまくいかず童貞みたいになってきた自分と、バイクを走らせて、田舎道を大声で歌いながら駆け抜ける自分、
隠したいことも隠せず、それが度胸だと未だに勘違いして生きている。ひどく落ち込んだあと、少しだけ明るくなるフリをするのが健全だと思い込んで生きている。
別にコソコソしながら暗いままでも生きていける。明るくなくたっていい。モテとか、スペックとか、そういうのも全て嫌いだ。嘘もアパレルもバカもギャンブルも夏フェスも社会人も女もジジイもアパレルも金髪もジョッキもセックスも全部嫌いだ、全部俺に向いていない。本当に疲れた。
求めたくないものを手に入れようとする自分が情けなくてしょうがない。そんな情けない自分が深刻なのに、悲しいのに、心にダメージが全く入らないのも、満ち足りているのも、全部、全部悔しい。
なぜこんなに元気で、虚しいのか。日が跨ぐほど新しいことはもう手に入らないのに。あの頃に戻りたいな、宝石箱みたいなきらきらした毎日に。
これも日常のための創作だ。宝石箱なんてものはなかった。今の自分を直視できないでいるだけで、これまでの全ては日常だ。昨日も5年前も変わらない。
いいなと思うことが増えた。と同時に羨む立場になってしまった自分に悲しくなった。これも全部妄想の中で悲劇ぶっている自分だ。本当は何ひとつ変わらない。俺は俺だし、いつもいい奴だから、何も悲しむことはない。
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余計なことを考えない、そんな退屈な人生にはしたくない。だからみんなと遊んでみたり、1人になってみたり、愛してみたりするのだと思う。時期は違えど、そのときの求めている感情で、日常を創る。何を体験するかよりも、そっちの方が大切な気がする。自分から発信すること以上に、自分を見つめ直す過程での創作をするべきだと思う。
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7.
誰かを救うことは「創作」ではありません。
救われるとしたら、それは「創作」です。
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おわり
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