日常のための創作論

1.

まずは自分を愛してください。そのあとに否定から入ってください。そうすれば自ずと求められるものが見えてきます。

 

そこからは延々と悩むだけです。

 

2.

皆の個人の中にある永遠のテーマ、「自分」についてを考える時の大事なプロセスを今決めてみた。あながち間違ってはいないと思う。

 

まずは自分を愛する これは、どれだけ守られた戦いをこなしてきたかで変わる。自分が優れていても優れていなくても、価値あるものとして扱われてきたか、また自分視点のみで絶対評価が可能であるか、これで決まってくる。

 

3.

その後は、まず否定から入る 

 

自分には価値がある、と、他者にとって不必要である、の区別はかなり重要であって、自分にとっての他者と他者にとっての自分をイコールで今一度結び直す必要がある。自分は特別である、それと同時に自分は必要のない人間である、ということも割り切っておかなければならない。

 

4.

日常のための創作論とは、1人で乗る電車にも物語があって、朝起きて散歩するのにも物語があるように日常を健全に送るための妄想のことである。

 

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影が伸び 引き止める理由もないけど 永遠が何かを知りたくて

 

長い前置きを挟んだところで、最近の現状というか、悩みというか奥さんというか彼女というか…題名は「日常のための創作論」にしたけれど、特に書きたいことはない。強いて言えば、ここ数日の自分の不甲斐なさに打ちひしがれていて、何かを残さなければいけないと思い、文字を起こしている。

 

自分は、何も起こらない日常に好感を持っている。それと同時に寂しいという感情を持ってしまう。つまらない、とか面白くないとかではなくて、ただ寂しい。そういう日常を健康に送りたいがために何かを考える。創作をしたい。こんな俺の寂しい日常を文字にしても、ただカワイソウな寒い自虐をこする人にしか見えない。だから短歌を考え、下手くそなギターを弾き、壮大な絵を描こうとしてはくしゃくしゃに丸めている。

 

創作は小さなものでいい、ましてや自分で楽しむだけならば妄想でいい。人が創作したものは、自分自身のものになるまで時間がかかる。大きな感動を得たいなら、そこに辿り着くまでの必要なエッセンスを貯めなければならない。自分が他者に対して何かを創作する立場ならば、質の高いものを恒常的に生み出さなければならない。そんな力も、意志の強さもない。だから今日も1人で考える。あてのない、漠然とした、感動するなにかを。

 

その点において、短歌は比較的"易しい"創作だと思う。31文字でそれっぽいことを考えるだけで、なんとなく様になる。

 

ふるさとの匂いを初めて知ったとき 少女期のあなたが蜃気楼

 

先月の半ばくらいに考えてたやつ。帰省しているときに、犬の散歩をしながら思いついた。「少女期のあなたが蜃気楼」とか、ぶっちゃけ自分でもよくわかっていない。ただ、実家の匂いが"実家の匂い"として認識したことに気づいて、子どもの頃の自分とずいぶんと離れてしまった。忘れたつもりじゃないのだけど、思い出さなくなったことが増えてきた。「少女期のあなた」は自分でも、あなたでもなんでもなくて、日常の中で顔を出す、誰かも知らない誰かなのだ。

 

その時の自分には、「せつなさ」が欲しかった。日常のための創作は、いつだって自分が欲しい感情を添えることで成り立つ。必要とする感情から自分を守るための作業に近しい。

 

先々週くらいにアコースティックギターを買った。元々、エレキギターを持っていたのだけど、MOROHAを聴いていたら、思わずポチってしまった。

 

アルペジオという指で弾く奏法を初めてしてみたが、ピアノを習っていたおかげもあってか、そこまで苦ではなかったし、コードも元々押さえることはできたので、4日くらいでMOROHAの「バラ色の日々」を完コピできた。

 

元々、音楽は好きな方で、中高生のころは誰も知らないバンドとかをディグったりして、個性のない自分に強みができたみたいで誇らしかった。フジファブリックくるりandymori毛皮のマリーズハヌマーン、、、ストーリーにそういう昔のLIVE映像をあげては、自分の理想のイメージをみんなに押し付けていたと思う。陽キャなのに周りとは違う、どこかセンスのある奥行きのある男、、、みたいな思惑をもち、アホほど自分に酔っていた。

 

でも、それも日常のための創作だということに最近気づいた。今、自分がMOROHAを聴いて泣いてしまうのも、羊文学を聴いて悦に浸る17歳の自分も、曲の延長上にある自己の解釈で物語を作っている。結果はどうであれ、健全なアクションであることに変わりはない。

 

一度、作曲しようかと考えたこともあるけれど、ピアノをやっていたのに音感がなさすぎて諦めた。誰もが通る道を通ってきたことに、今なら恥ずかしさを感じない。

 

5.

誰かのために、ではなくて自分のための創作をしてください。

 

6.

嘘をつく必要はありません。本当に良いと思っているものを、自分の中にだけ集めてください。

 

集めたものに飾りをすれば、日常のための「誰か」への創作になります。

 

 

創作論というより、ただの日記なんだけども。

 

ああ今、自分が自分じゃないみたいに動く
とおいとおい記憶で

 

家で遺憾無く才能を発揮する自分と、人と関わらず、マッチングアプリですら何もうまくいかず童貞みたいになってきた自分と、バイクを走らせて、田舎道を大声で歌いながら駆け抜ける自分、

 

隠したいことも隠せず、それが度胸だと未だに勘違いして生きている。ひどく落ち込んだあと、少しだけ明るくなるフリをするのが健全だと思い込んで生きている。

 

別にコソコソしながら暗いままでも生きていける。明るくなくたっていい。モテとか、スペックとか、そういうのも全て嫌いだ。嘘もアパレルもバカもギャンブルも夏フェスも社会人も女もジジイもアパレルも金髪もジョッキもセックスも全部嫌いだ、全部俺に向いていない。本当に疲れた。

 

求めたくないものを手に入れようとする自分が情けなくてしょうがない。そんな情けない自分が深刻なのに、悲しいのに、心にダメージが全く入らないのも、満ち足りているのも、全部、全部悔しい。

 

なぜこんなに元気で、虚しいのか。日が跨ぐほど新しいことはもう手に入らないのに。あの頃に戻りたいな、宝石箱みたいなきらきらした毎日に。

 

これも日常のための創作だ。宝石箱なんてものはなかった。今の自分を直視できないでいるだけで、これまでの全ては日常だ。昨日も5年前も変わらない。

 

いいなと思うことが増えた。と同時に羨む立場になってしまった自分に悲しくなった。これも全部妄想の中で悲劇ぶっている自分だ。本当は何ひとつ変わらない。俺は俺だし、いつもいい奴だから、何も悲しむことはない。

 

余計なことを考えない、そんな退屈な人生にはしたくない。だからみんなと遊んでみたり、1人になってみたり、愛してみたりするのだと思う。時期は違えど、そのときの求めている感情で、日常を創る。何を体験するかよりも、そっちの方が大切な気がする。自分から発信すること以上に、自分を見つめ直す過程での創作をするべきだと思う。

 

7.

誰かを救うことは「創作」ではありません。

 

救われるとしたら、それは「創作」です。

 

おわり

セツナ

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もう4月も終盤に差し掛かるはずなんですが、なんかちょっと寒くない? ストーブまだ点けたり点けなかったり、ハミングしてみたり、Shazamしてみたりしていいですか、

 

の日記です。

 

2024.4.16

 

おそらく人生で一番聴いた、フジファブリックのデビュー20周年。はじめて聴いたのは11歳かな、銀の匙のED曲の「LIFE」がなんとなく懐かしくて、子供ながらにノスタルジックを感じていた。

 

中学生になって、YouTubeを見るようになってから初めて志村正彦に出会った。好きになった時にはもう彼はこの世にはいなかったけれど。

そこからはくる日も更新されない公式チャンネルを開いては過去のMVを漁っていた。7ヶ月くらい全く更新されなかった時期に、永遠と待ち侘びていた記憶がまだ大事に消えないでいる。

 

あんまりマニアックすぎても分からないし、ここまでにする。自分の心の中だけに秘めておくぜ。ただひたすらにおめでとう!

 

2024.4.17

おれ、なんか寂しかったっぽい

 

 

携帯のメモにそれだけ書いてあった。本当のことはいつだって簡単なんだ。

あとはそれを認めてあげられるかどうかだと思う。

 

花拓く 何者かになりたい君 霜焼けで暖めてたなにか

 

 

こないだ健康診断があって、尿検査のキットを持ち帰った。昔は前の日の夜に、忘れないようにトイレに置いておいても、朝目が覚めて、ぼーっとしながら小便して1回目のおしっこじゃない、みたいな体験をしょっちゅうやっていた気がする。

 

その日の夜、尿検査のことが忘れられなくて、そのことばかりを考えていた。朝になっても忘れられずに、きちんと採取したのだけど、頭から離れないのは、自分自身の成長のなさ故の記憶の定着で、少し不甲斐なかった。忘れないように、忘れてしまうのは悪いことなんかじゃなくて、脳のメモリをそこに割けないくらい充実しているということだ。

 

春になって、頑張らなきゃな、と思う瞬間が多くなった。だからそういう歌を詠んだ。

「何者かになりたい」みたいな絶対的な欲求が、雪が溶けて桜が開花するたび強くなっていく。自分の才能を試したくなる季節で、躍動しようとするところまではいいけれど、本当に花開く奴は、俺たちが頑張ることの大切さに気づくずっとずっと前から"がんばる"を知っていて、それを踏まえたうえでも、負けたくない。

 

 

霜焼けで暖めてた なにか は俺にはまだ分からない。

 

 

2024.4.9

 

普段はあんまり見ないイチャラブ系のAVが一番刺さるのは、まだ俺がいい奴であることの証明として何かに使えないかな。

 

独りでも、簡単に「好き」と言える人が欲しい。

本当は人なんて必要なくて、目に見える手っ取り早い幸せを軽い気持ちで受け取りたい。

 

こういうのは、よくないからしない。だからこそ独りでいちゃいけない気がする。

 

 

さすらいネキがどっかの事務所に所属になったことに、佐久間宣行とかサーヤとかがなんかの媒体で、「そういうのが冷める」みたいな囲い方をしていて、悲しかった。

 

 

センスは正義だし、ドラッグだから、自分を守るためだけに使う人が多くて、しんどい。

 

 

誰かのための人生に憧れていたけど、最近はそうは思わない。幸せそうじゃない奴からのやさしさは、伝搬しづらい気がする。

 

でも誰かが傷ついたなら、俺は誰も知らないところで自分が、となると思う。

 

2024.4.17

 

とてもおもしろいことが起こって、俺の人生みたいなことが起こった。沢山笑ったし、物語のおわりを見た気がする。

 

俺は、わかりやすい幸福に向いていないのだと思う。誰にも分かってくれないような、明るくて、愛らしい自分に、少しだけ悲しくなる。

 

だんだんと、みんなの思う「普通」に執着している気がする。本当は救う側じゃなくて、救われる側だったのかもしれないと思い始めてから、原子レベルの「拒絶」を扱うようになった。

 

自分の心がぐちゃぐちゃになっているのを冷静に俯瞰できてしまうせいで、何もできずにいる。

 

だから最近は「人間あるある」みたいな普遍性を試して、感動する生活を送っている。スマホを見ないで外を歩くとなんだか心が浮き足つ、とかね。逆張りをしないで、ひとつひとつ誰も手出しできない領域で、感動している。

 

 

今日、清宮が今季初スタメンで活躍したのでスッキリして寝れそうです。明日からは4打数2ホーマーは絶対条件です。

 

 

おわり

 

 

 

 

 

 

End of adolescence (中三の春)

 

400km離れた友達にバイクで会いに行って、昨日帰ってきた。この時期に9時間近く乗っていればそりゃ風も冷たくなるって感じで今体調を崩している。 というか、行きも着いたはいいけどそこから38℃くらいの発熱をして、初日を台無しにしてしまった。

 

帰りの日は天気が良くてバイク乗りが多かった。本州の人は北海道と違ってヤエーをする人はそこまで多くなくて、海岸沿いに近づくにつれて多くなった。長い冬を終えて、みんな浮かれている。キラキラした海が戻ってきて、おれも浮かれている。

 

浮かれたついでに、前の記事でthreadsで短歌を上げていることを話したけど、Xにそれ用のアカウントを作ってそこで上げるようにした。身近な人がいない、似たようなことをしている人の反応が新鮮で嬉しい。ヤエーもそうだけど、これから関わることのない、誰かもわからない人とのコミュニケーションは熱に浮かされていて、その感情のみを共有している気がする。不思議と心地よい。

 

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あの夏に必要だったエトセトラ 君と単車と長いトンネル

 

短歌をあげつづけていて、自分の短歌に「きみ」とか「あなた」がよく使われていることに気づいた。 というよりも、誰かがいる前提で話を進めていることが多い。普段の生活で、誰かと何かをする機会はなくて、だからこそ自分と今一番距離のある「恋」とか「青春」を理想として持ち上げているのかもしれない。

 

ひとりでいると、理想のあなたが沢山現れる。それはひとりでいる特権だと思う。でも、時間は限られているから、いつまでもそういう逆張りみたいなことはやめたい。

 

 

バイクで帰っている9時間、色々なことを考えていた。

 

昨日、思春期が終わった。

 

「昨日、思春期が終わっていたことに気づいた。」が正確か。

 

なんとなく家族のことを考えるようになったこととか、自分の大事にしていたものを言葉にするのに恥ずかしさがなくなっていたこととか。そういう自分の中で特に気を付けていた、しちゃいけないことみたいなのを、とっくに忘れていたことに気づいた。トンネルをくぐれば心が躍り、童心にかえったみたいに心が穏やかでいて遊び足りない気持ちが蘇る。

 

自分は人より成長が遅いと思って生きてきた。能力的な話ではなくて、精神とか、身体の馴染み方とか。思春期も細く長く付き合ってきた。中学生に入ったとき、自分には「反抗期」がなくて誇らしかったことや、実はそれもゆるやかな成長曲線の始まりだったこと。永遠に続く「仮想敵への抵抗」も全てようやく終わった。

成長の遅い自分には、「思春期」にも細分化された「思春前期/後期」みたいなものがあって、未だに後期での闘争が尾を引いている。

 

3〜5年前くらいから始まった「思春後期」の大きな闘争は自問自答にあって、人との距離感の問題に悩んでいた。多分これは普遍的であり、自分だけが悩む問題ではないことも知っている。俺は人が好きすぎるあまり、大好きな人たちから嫌われないようにずっと視線を伺い強張らせていたと思う。自分に自信がなくて、迷惑をかけることがどんなことでも大罪だと決めつけてきた。そういう風に生きてると、どんどん距離が開いていく。近づいても、それ以上のところで急に何かを挟みたくなる。

 

そういう「闘争」とともに昔の友人をたくさん取りこぼしてきた。本当は割り切りたいのに、虚しい気持ちでいっぱいになる。昔も今も好きだった人たちを、純度100%で話しかけることがもうできない。ずっとやさしさとか迷惑をかけないとか、その人にとっての「それなりのポジション」にいることを自信に繋げていた自分にとって、それが悪手であることに気づくのが遅すぎた。

 

思春期の渦に呑まれる自分は「大人のみんな」を妬きつつも、邪魔をしない一心で生きてきた気がする。案外迷惑をかけてもいいこととか、今なら受け入れることができると思う。もし、こどもができるのなら、「優しくなりなさい」でも「人様に迷惑をかけるな」とかじゃなくて、いま思っている大事なことを話したい。

 

帰り道に、家族とかのことを思って涙がでたけど泣きはしなかった。男だし。

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海が輝き出せばもう寂しくない 小さな神様にバイバイ

最後に泣いたのはいつだっけ。

 

前に付き合っていた女の子とお別れする時は泣いた。でもそれも思春期だったと思う。勝手に涙が出たわけではなくて、自分のために、自分に酔うために泣いたと思う。

 

でももうそれも思い出さない気がする。

 

今日、調子が悪くて昼寝をしていたら、久しぶりに夢を見た。

 

小学校でテロ対策訓練的なものがあって、見せしめにモデルガンのようなもので三十発くらい腹を撃たれた。みんなは笑ってたけど、かなり痛くて、それでもみんなが笑ってるから我慢した。痛みの伴う方を選んで、楽をする自分が懐かしかった。

 

それはまあ前座みたいなもので、その訓練会が終わったあとにそれを昔の同級生に愚痴ったら「偉いじゃん」と褒めてくれて、なんとなく青春だった。そんな青春ぽいことをしたのち、気づけば卒業式が終わったところに走馬灯みたいに懐かしい人たちが沢山いた。

 

昨日の帰り道のことを整理したのかな、となんとなく思っている。「思春期」が終わった自分にさよならを告げるかのような夢だった。もう会えない人たちと話して、それが人生だったかのような懐かしくて、温かい場所にいた。

 

 

夢から醒めて、起きたら狭いアパートにいた。p.m.3:23 、外は少し陽が落ちていて、心にぽっかり穴が空いたみたいな虚しい気分で外に出た。

 

「本当は、無理をしていた自分を褒めて欲しかった。自分は自分から関わらなくても、永遠に求められる、スターのようでありたかった。」

 

おまえはそう思っているんだろ?

 

みたいな投げかけをされたみたいで、そしてそれが間違いではないことが情けなくなった。自分の理想のために、誰かからのアクションを待っていただけの生活に、いつかはピリオドをうつ必要がある。

 

それがいつになるかは分からないけど、大事にしたいものを大事にしたい。自分がいなくてもいい世界で、みんなの強烈な幸せになりたい。

 

 

あとは太ったので痩せる、筋トレがんばる。おわり。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

spring poetry.

 

おいっすおいっす、始まりましたプロ野球。なんでも始まりってワクワクするよね〜

 

このまま日ハムが143勝1敗で終わりますように

 

の日記です⚾️

 

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去年の今頃に短歌の練習をしていた。

なぜかまた最近になって短歌のことを考えている。春先はポエミーになってしまう季節なのかもしれない。イメージ的には秋とか冬なんだけど。

かなり最初の方の記事に

冬のモヤ 春に持ち越さないように 黒い雪と一緒に溶かそう

 

こういう詩をつけた。これは今になって見るとあんまり気に入っていないのだけど、今年の冬の不調と重なって一年前にもらったイメージとまた違う感じ方を受けた。当時はなんとなくの冬の憂鬱なイメージとか寒い印象を、春になればもうそんなものはいらない!みたいなノリで詠んだ気がする。

 

今年は一番退屈で苦しい冬だった。でももうそれも終わり。明日になればきっと全てどうでもよくなる。全てうまくいく、

 

みんなもそうであってほしい。

 

最近うまれた短歌はインスタのthreadsにちょこちょこ投稿するようにした。日々の経過を少しでもわかりやすく、そして余計なものを含まないように新しいもので始めたかった。時代遅れだけどやっとthreadsを活用し始めた。もうみんなやってないのかな。

 

 

a.m.4:00 ふたりおかしいねと笑う寝室 「永遠のトワイライト」 

 

一昨日くらいに詠んだやつ。犬と散歩するときここ毎日ずっと頭を捻らせている。これはここ最近のなかで一番気に入っている。

 

ふたりだけの終わらない午前4時の空間。ここに時間を進めるものは必要なくて、ふたりが味わっている「エモ」と「エモ」から遠く離れたいふたり。「エモ」が簡略的な言葉であり、あまりに消費されすぎたお粗末なもの、としての認識がある。(俺が、ではなくてこのふたりの話)

ただ、「ヤバい」をもう何も考えずに使うように、「エモ」それ自身の魅力というのは明らかに個人の中にデフォルトで浸透されるようになっている。

それでも「エモ」の中心にいるふたりが、ダジャレでどうにか「エモ」から離れて闘争する。ダジャレはダサいのにそれ自身は軽やかでいて、とても魅力的だ。「永遠のトワイライト」なんて本当、クサくてダサい。ただ、ある種のスベリ芸としての担保がされていて、後に引き摺らないからその言葉自身の意味も残りはしない。ふたりの終わらない夜明け前も、「エモ」として残さないよう、軽やかに終わらせたかったのかもしれない。

 

 

ちなみにボツとして

「ラブホテルみたいな筋トレ インクラインシーサイドロウ」 2人は別れる

 

これはやりすぎだし、最後の7文字じゃ説明不足だからボツになった。なんやインクラインシーサイドロウて。

 

でもなんかおもろくていいよね、これ。

 

 

自分はジョークの魔力に魅せられている。

 

こないだある人に「お前のそういう早口キモいからやめた方がいい。」と言われた。

まあこれは間違いではない。俺は渋い漢になりたいけれど、口が回りすぎて早口になってしまう。

また同じ人にジョーク同士のやりとりがうまくいかずにただのキレ芸(一応芸とつけておく)で返されたことがなんとなく頭から離れない。

 

別に言い訳をしたいとかではなくて、その人に限った話ではないけれど、ボケ、というか正論なのかは分からないけど、自分はそういった正論ボケ、みたいなのがあまり好きではない。

 

全ての界隈で、逃げ場をつくってあげないイジリが多い気がする。本人はボケているつもりなのかもしれないけれど、心の奥底で"優位に立ちたい"気持ちが「場を明るくしたい」よりも強く見えた瞬間がとても切ない。俺はプライドが高くて繊細だ。それを誰よりも分かっているからそういうことをしたくない。

 

優しいお笑いでも、誰かを傷つけるお笑いでもなくて、「対等なユーモア」がとても難しく、いちばん技量の試されるものだと思う。正論だけが優しさでもないし、面白おかしくしながらも言い返せないように組み立てていくのもユーモアではないと思う。

「うまく言い返せない状況」をつくったやつは俺の中ではtier表ダントツビリけっつだと思っている。完全に好みだからこれが正解とかはわからないけど。

 

面白さには軽やかさが必須だと思う。深刻さを感じさせないのがより美しい。「場を支配する」のではなくて、「その場」になりたい。

多分これを理解してほしい人にはきっと分かってくれないだろうけど、面白さの種類はたくさんあって、やさしさと同じだと思う。

 

やさしくて、面白くて、強い人になりたい。

 

 

ただひたすらそれをぼんやり考えながら、明日も散歩するのかな。

 

 

おわり

 

 

 

業を終えて

原因不明の体調不良から復活しかかったように見えたものの、今度はコロナウイルスに侵食されてしまいました。

 

いつまで経っても元気な自分は見つからないまま…

 

 

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こないだ犬の散歩をしていて公園の前を通りかかったとき、低学年くらいの女の子ふたりが 「かわいいですね〜」と言ってくれた。

 

「ありがとね〜」って返した。小さい子と接するときはなんだか小っ恥ずかしくなる。ずっと末っ子マインドのまま生きているから、急にお兄さん感がでると違和感しかない。

 

ただ、話しかけてくれてものすごく嬉しかった。こういう日常がたくさんある街に住みたい。

 

コロナをうつしてませんように…

 

 

コロナ3日目で窓を開けて換気した。

 

冷たい風、なんだ、3月。お前はまだ3月なのかい。

地面も大体見えてきたね、春、だね。でもまだ雪が残ってる。卒業の季節、だ。

 

終わりが来ると、全ての無駄だった時間が価値を持ち始める。意味のないあの空白の時間も、必要だったと感じてしまう。多分、そんなことないのだけど、ノスタルジーとはそういうものだと思っている。元に戻らない過去の自分を正当化する時間が、心を健全に保つためのプロセスなのかもしれない。

 

おニャン子クラブの卒業ソングを聴いてたら、なんかまたみんなに会いたくなった。

 

 

人間よくできたものなのかはさておき、年度末はなんとなくこれまでの生活の反省をしてしまう。

ちゃんと友達をつくればよかった、とかちゃんと恋愛をしておけば、とか。

 

本当は寂しくて仕方がないことも。

 

今年度はかなり人との距離感を取っていた。理由とかはいまいち自分でも分かっていない。ただ一人で考えることが多くなったと思う。将来、夢、異性、バイト、学校、社会、、、とかそういうものに積極的に触れたくなかったのが本音なのかも。時間を浪費することで、"今"を実感しながらダラダラと過ごしてきた気がする。

あとは、みんなの生活の中心はなんなのか、外から眺めてみたくなった。

 

そういう生活を続けると、やはり周りとは共感できないことが多くなった。別に地元に帰れば友達と遊ぶし、勝手に縁が切れたり、何か揉め事があったかといえば全くそんなことはない。友情は永遠マジ卍

 

ただ自分の中での孤独感が強まっていった。自分がみんなより子どもだったこととか、平和をただ祈る自分とか。

 

窓を開けて、大声で全て伝えたら届くのだろうか。このガビガビの声で。

 

 

○○なのになんで私を産んだの?っていうやつ、お前はなんて言われたいの?

 

確かに顔も不細工だし、歯並びも悪いし、お金もないし、性格も捻くれているし、誰かのせいにしなくちゃ生きていけないようなスペックだけど、

 

俺はおまえが生まれてきてくれて嬉しい。

イヤミでもなんでもなくて。

 

 

 

ただブロスタで利敵行為してるやつは○ね。

 

 

また時間があるときに3月の記事を書きたいです。

 

なんとなく、3月は想い起こすことが難しい。

 

みなさん、卒業おめでとう。

 

春です、春が来ますよ。

 

 

おわり

 

 

 

 

 

 

"March"ing band (3)

 

みなさんいかがお過ごしでしょうか。

この日記を書き始めてから初めて一月以上あけてしもうたりました。本当は2月の半ばくらいに投稿しようとしてたのですが、どうも夜遅くまで起きてられないようで、気づけば3月の一週も終わってしまいました。

 

未だに不調は終わらない、最近はそんな感じです。

 

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「完璧」でなければならないことは存在するのか。

 

100,0 理論みたいなのをよく見かける。やりこみたい性格のせいで、完璧でなければ途端にやる気が削がれて全て放ってしまう、いわゆる「完璧主義」。

この気持ちはすごく理解しやすいし、ちょうど一般人からしてもある程度ステータスにしやすい"気質"という武器の一つになる。

自分もその理論が当てはまっていると信じ続けてきた。そもそも「完璧」とかいう美しい言葉を自分に付随できるものならば簡単に信じてしまうのではないか。

 

自分の限界を知りたくない人が沢山いる。俺だってそう。自分の「完璧」を存在させない、100の存在を匂わせるだけ匂わせて、さも遠くにあるかのように、0を散らしていくだけの簡単な作業。

努力できないフリをすれば、0にできる。自分の全てを投じた50や30を受け入れずに済む、魔法の言葉。

信じたくなかった、外から見た自分。内在のみの世界でそこにいた天才が、凡人に成り下がりうる姿を、それが自分だという現実が受け入れ難い。

「少し初速が速いだけの凡人」のレッテルを自分自身に付けようとし始めている。

ただ、その自己嫌悪が本当に意味のないことなのかもしれない。"凡人"だと自覚していいことなんて何一つない。"天才"="傲慢"でもないし、"天才"="謙虚"でもない。天才は天才だし、自分は自分だと思う。

周りより頭0.5個分抜けている凡人だと認識して、わかりきった顔してライフハックとか、人生の攻略法とか、結論ベースで「こう生きるべき」とかドヤ顔で周りとの差をせこせこ稼ごうとしてるやつがくだらない。俺はそんな生き方をしたくない。努力できても、できなくても、自分は自分だから。少しずつ自分の足跡を大事にできたらなと思う。

 

だから凡人だとしても自分を天才だと思うし、顔はそんなにカッコよくないけど、イケメンだと思ってるし、何かを成さなくても愛せる自信がある。自分を分かりきりたくないし、人生とひたすら向き合いたい。

 

 

大谷翔平が結婚した。届かないかもしれないけど、おめでとう。

 

 

 

よし。いなくなったな。

ここからは悪口になるけど、大谷が結婚して開口一番に「おめでとう」の一言も言えないやつはまじで危機感持った方がいい。

弱いって。

 

友達同士、とか絶対に本人に届かないところで話すにはおめでたいね、とかいの一番に言う必要はないのだけれど、ネットとかでまっすぐなおめでとうを一番初めに言えない人が多過ぎて嫌になった。

匂わせてない奥さんの話とか、独身男性の所得の平均値とか、デコピンの話だとか、凡人の中の"センス代表"みたいな自己紹介のためのポストが人の冷酷さ、ではないけれど、どこまでも「大谷翔平」じゃなくて「自己紹介の競争」になってしまっていて悲しくなった。

マスコミがうるさい、というのが大谷の報告の一番の理由であって、さっきの「センス自己紹介文」なんて多分見ていないし、なにも気に介していないのかもしれないけど、何故か俺が悲しくなっているし、この感情も全てひっくるめて「うるさい」と思ってしまったのかもしれない。

 

日本中のほとんどが「大谷翔平」を「誰もが認めるスーパースター」としての孤独の称号を与えていて、誰も大谷を一人の29歳の男性として見ていない気がして悲しい。

中国の誰かが「大谷翔平」を商標登録して、荒れていたけど、日本でも本質的な部分では簡単に扱える「ラベル」としての存在で、さして変わらないと思う。

 

すごい人だからおめでとう、ではなくてありふれたただの二人用のおめでとうを当たり前のように、贈りたい。

傲慢だけど、対等だと思ってる。差はかなり開いちゃったけれど、諦めたわけじゃないよ。

 

 

さてとォ、サイドスローのナックルでも練習すっか…!

 

 

セックスたらしめているものは。

 

まず、セックスを真面目に語ってしまえばセンスをちらつかせられるし、そういう情念から逃れているみたいな雰囲気も出ると思っている奴はとりあえず一回ポルノで顔洗って出直してきて欲しい。

セックスがかっこいいわけあるか。

なんでもかんでもちょっと捻っておけばいいみたいなのやめろ、俺は本気でダサくて気持ち悪いやつでいたい。レロレロ。

 

俺は今、幸せだし、本当は性についてなんて深く考えたくもない。でも、事足りていないのは事実だし、消えない欲求も繰り返しリロードされていく。

 

「今の時代に子どもを産んで、幸せにできる責任を取れない」が最近のトレンドらしい。

 

ずっと幸せにしてもらっている俺にはよくわからないことで、8割は親のおかげで2割はみんなのおかげ。だからいつまでも自分がカワイくてしょうがないし、大好き。

だからこそ子どもが欲しいし、幸せなってほしい。

幸せにできる自信がない人は、どういう環境で育ったのだろう。生まれてこなければよかったとか思っているのだろうか。

 

「自分が今幸せでないことを一生誰か責任にするつもりなのか。」

自己中心的な、大人になりきれていない人が沢山いると思う。

だけど、幸せを感じるセンサーの大元はきっと親とか環境が地盤を固めるものだし、死にたくもないけれど、生まれなくてもよかった人がいる事実がとても寂しい。

 

あの人は、今日セックスをしたのだろうか。

美味しいご飯を食べているのかな。

ちゃんといい夢見れているかな。

好きなYouTuberはなんだろな。

 

生きる意味はなんなのか、ちゃんと考えているのだろうか。

 

「諦める」が正解だった人がいるのかもしれないけれど、それ以外の正解も絶対あると思う。

俺は今日もそれを考えているし、お腹が空く。セックスはぶっちゃけ気持ち悪いと思ってる。でもなんかすごくしたいと思うし、女の子のことを考えると何かヘンだ。冷静なんかじゃいられない。

生物を超えた「何か」になろうと、全てを理性に託しているカッチョエエ人が増えてきている。俺だって本当はそうなりたい。

人類の歴史の逆張りなんて、一世一代の厨二病だろ。そんなことのために「人生楽しくない」って十万円もする機械でポチポチやってんのが正解だとは思わないけど。

 

 

 

ただつらい。俺の平和が好き。それだけ。

 

 

 

 

頭が痛くなって、熱がでて、もう2ヶ月が経った。最近はかなり良くなってきて、ナーバスになることもなくなった。

 

2月が終わって、進み続ける3月

 

開け
心よ
何がやましくて
何故 悩ましいんだ 僕ら 

.「マーチングバンド 」ASIAN KUNG-FU GENERATION

 

アウターもすぐにいらなくなるみたいに、頭痛も熱も何もかも、自分を取り巻く全てを変えてゆきたい。

 

意味のない肯定をしたくない。それが恥ずかしいことだと分かっているから。

 

 

またいつもと同じ、言いたいことの1/3も言えずに終わってまう。ちゃんとたくさんメモしておかないとね。

 

 

ほんじゃまた、雪がとけたら。

 

おわり

 

灰色のゲレンデ / 他2つ

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今は2024年の1月30日、23時07分。治らない頭痛と発熱から一か月が過ぎて、未だに健康な身体を2024年に持ってこれず。ようやく先週処方された薬を飲み終わったが、段々と自分の身体の感覚が鈍くなっていって、良くなっているのかが分からない。明日また検査をしに行く。

 

俺だけの2023年はまだまだ続く...

 

どうにか雪が解ける前に治ってほしい、春が来る前に。



/灰色のゲレンデ/


こんな身体になってから、自発的に外に出ることがほとんどなくなってしまった。毎日していた散歩もする意味がなくなったし。

 
いつも歩きながら何かを考える。基本的にはどうでもいいこととかばかりだけど、そういうどうでもいいことが急にいじらしくなったりする。ドーナツの穴の意味とか、明日の昼ご飯のこととか、したことのない競馬のこととか。でも今は、外に出歩くことがあると、「少しは良くなったか?」とか「やっぱりどこかおかしい」とか、身体の具合ばかり気にして、いつも通りの自分でいられなくなってしまう。だから用があるとき以外、外に出歩かなくなった。


こないだ、一日中家に引きこもって、特に何かをしたわけでもなく、ただベッドの上で痛みを確認していた。本当は治ってほしいのだけど、急に治ってしまえばそれはそれで怖いとか、意味のないことなんだけど。夕方の4時くらいになって買い物のために外を出ると、なんだか冷たい風がきもちよくて、胸が詰まってしまった。


はやく、よくなりますように。と思った。いつもより早く起きて、寒い息を吐くためでも、なんでもない日をなんでもない日で終わらせるためでも、理由はあとからたくさん出てくると思う。


そのときかどうか忘れたけれど、道端でタバコを加えてるオジサンがいて、頭の中にスキー場が出てきた。2月のゲレンデは受動喫煙の匂いがする。なんかわからないけれど、新雪じゃないから雪も若干灰色だし、空の色も水墨画みたいな顔してるからそういう雰囲気にのまれて見えない煙を吸った気になっているのかもしれない。実際のゲレンデはカップラーメンの香りだったかもしれない。でもカップラーメンもタバコと同じ仲間に見える。なんでだろ。そうだ、よく汚部屋の景色には大量の吸い殻と積まれたカップラーメンの容器があるからだ。。。

 

みたいにのどかに散歩するのが日課だったのにな。アーメン。



/ブランコのむこうで/


さも全く外に出ていないような書き方をしたけれど、実際には学校にも行っているし、いつもと変わらない生活を続けている。それにしたってつらいけどね。


今週の日曜日にはいつもより体調もよかったので、知らない街に行こうと意気込み、いつもより大きめのバッグに本とかメモ帳とか、絶対に使わないモバイルバッテリーとか入れて電車に乗った。ただなんか思ったよりも電車が気持ち悪くて2駅か3駅先で降りてしまった。それでも田舎だから、たった2駅でも知らない世界が広がっている。なかなかいいところで降りたと思う。


自分が存在しないことが当たり前の町はなんだか妙にソワソワする。自分がいなくても成り立っていることに、変に感動してしまう。住んでるところだって俺一人いなくても全然成り立つけど。自分の知らない幸せの形かあることが嬉しい。そういう幸せをもっと知りたいと思ってしまう。新築の家とかを見ると、幸福を分けてもらっているような気分になる。


自分は結構ありもしないことを信じていると思う。自分が勝手に決めた幸せを他人に当てはめて、いつかの自分に夢を見たりするし、あるなしに関わらず、見ただけで胸が震え思わず泣いてしまうような景色をいつか見たいと思ったりする。ありもしないこと、というか若干メルヘン脳なのかもしれない。


そういうことを考えていたら、やっぱり具合が悪くなって、公園のベンチで休んだ。素手で雪を払って座ろうと思ったら、意外に気持ちいいではないか。


…そうだ、雪だるまを作ろう。


誰もいない、知らない公園でひとり雪だるまを作った。さすがに手が冷たくって、小さめになったけれど。でもおそらく6、70センチはあるものを作った。ちゃんとボタンもつけて帽子も被せてね。


満足して再びベンチで本を読んでいたら、近所のジャリボーイが2人やってきて、雪だるまを作り始めた。きっと俺のよりも大きいものを作るのだろう。


小学生と張り合っているのが恥ずかしくなって、完成を見ないで家に帰った。今頃どうなってるかな、あの雪だるま。


/Chronicle/


先日、急に読みたくなってあたしンちを全巻集めた。正確には、古本屋さんに全部置いてなくて4冊足りなかったけど。


さいころからみかんちゃんが好きだった。デザインもかわいいし、ああいう子が好みなんだと思う。驚いたのは、好みの身長ドンピシャだった。そう、オイラは155センチが一番好き。理由は単純で、自分の身長が168センチだから、ちょうどいい。男女の平均身長が確か171と158くらいだったから、どっちも-3センチ。これならあんまり大きくない自分にも文句のつけようがない!と思っている。あとはおっとりしてるところが可愛かったりする。いいよね、そういうの。


昔から、「うちの3姉妹」だとか、主婦層が読みそうな子育てエッセイ的なものをよく好んで読んだりする。漢字も読めないくせに、幼稚園の頃、祖母におねだりして買ってもらったことを憶えている。「家族」の無限の可能性を信じて、これから何にだってなれてしまう子にもうすでに涙腺を緩めてしまっている。自分だってまだこれから何かになる立場のくせに。


なんだか、成長期が止まってしまったあたりから変に俯瞰してしまう癖がついてきた。ようやく終わりが来てしまった寂寥感と、見上げることの回数が減っていったことが原因だと思う。別にそんなおおきな身長ではないけれど、特段何かを見上げることが少なくなったと思う。そういうときに、きまって5歳の時を思い出す。


幼稚園はつくづく「こどもの王国」といいたくなるほどワクワクする。だけど、いつも通り過ぎる度スケールの小ささに驚く。昔は無限に広がっていた体育館も、今はもうプレハブ2つ分くらいにしか感じない。小さなころはいつも何かにワクワクしていた。自分には可能性というものでしか形成されていないんだ。とうまく言葉にできないながらにそう思っていた。これはみんなにもあると思うけど、小さいころは言葉にはできないことばかりで、実際には今よりもっと大人っぽいことを考えていたと思う。考えることで溢れかえってた日々をもう一度送ってみたい。


だからこそ、そういう教育・エッセイものが昔も今も変わらず好きなのだと思う。家族のカタチとか、溢れる無限のエネルギーとか、無償の愛だとか。

 

やっぱり、自分は見えない「いつか」の多幸感に夢を抱いている。

 

いままでのHAPPYな自分に、これからのHAPPY ENDを送ってあげられるように頑張ろうと思う。

 


今は2024年1月31日、午前0時38分。1月も終わるので今日はこんなとこで。


おわり