夏の終わり・ちいさな子ら

 

ようやっと夜も涼しくなりまして、汗をかかずに迎えられる朝がこんなにも気持ちいいことを再確認しつつあります。

 

 

9月入ってすぐに1週間ほど入院いたしまして、書こうと思ってた日記も麻酔が抜けずにボーっとしてたらもう10日なんですね、コワ。

 

 

のオータム日記です、夏おわり

 

 

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最近、常に頭の中で"懐かしさ"を求めている。というのも、どこかわからなかったけど、昔行ったことがある場所にふらっと着いた。憶えている箇所とそうでない、新しい発見を比較してみたり、とても楽しめた。自分の親が自分を色々な場所に連れてってくれて本当に良かったと思う。自分がいつか子どもができたとき、同じことをしてあげたいと思った。

 

それとは別に、小さな頃によく行っていた図書館に不意に行きたくなったりする。でも行ってしまうとマジで大したことないんだろうなと思って心の中でブレーキをかけることがよくある。

 

小さな頃はなにもかもが大きくて、圧倒される日々だった。それから十数年経って、毎日が過ぎるごとに世界が小さくなっていく。最近の自分は、外からの力に圧倒されたいのかもしれない。自分の意思で自由自在になんでもできるのが裏目に出て、何もできないでいる自分が嫌なのだと思う。だんだん身体ばかりが大きくなっていって、小さくなっていく世界を俯瞰できるほどのチカラを持つための努力をしているのか?とか、そういう小さなことばかり気にしてしまう、暇だから。

 

ちいさくて、なにもわからなくて、とてもなきむしよわむしな、これから何にだってなれる自分に戻りたい。ありきたりだけど、人生後悔ばかりだと思う。

 

 

 

今日車に乗ったとき、父親の車の運転先の後ろに挟めてある地図をずっと眺めていたことを思い出した。観光マップのページの地域別の見出し分が壮大で、お気に入りだったことも憶えている。

 

自分の理想の懐かしさには必ず"強制力"が発生する。上の話だと、車に長時間乗れば当時はスマホなんてものはないからその地図を見ざるを得なかった。自分の欲しい情報じゃなくても無理やり入ってくるものがある。最近の自分、というかほぼ大人全員にその強制力が足りてない気がする。みんな本当は、スマートフォンを自ら望んでいじり続けてはないと思う。どうしようもないとか、仕方のないことだと諦めながら触ってる気がする。

 

 

そろそろ好きだった人のことを忘れようと思う。

 

短かったけど、結構楽しかった。

 

情けない自分にはこれからも悩まされると思う。

 

夏が終わったから、もう忘れる。

 

永遠に薄めるカルピス 人として好きだからって何回も言う

.藤宮若菜

 

 

幸せのために生きれたらな、と思う。

 

 

ちいさなころはお父さん、お母さんが神様に見えた。

 

でも今はヒトなんだと、大きくなってしまったからわかる。

 

 

こないだ何年かぶりに兄弟が揃ったので写真を撮った。両親がその中で、とりわけ見た目が若かった自分に対して冗談抜きで「人生何も苦労しないで育っているから、見た目が幼い。」みたいな発言をした。

 

まあ確かにそれは図星ではあるし、他の家の人よりも多少多くの支えをもらって生かしてもらったとは思う、感謝もしてる。あの人らもその自負があってそういうことを言ったのだと思う。

そう。言ってることは間違いないし、自分もそう育ってきたのかもしれない。ショックだったのは、それが本当のことだとかではなくて、自分たちのためだけの発言だったことが悲しかった。

 

自分のために親として生き、自分のために命を削ってたくさんを捧げてきたことは百も承知だけど、その捧げてきた対象を下げてまで言うことではなかったと思う。

 

「がんばってきた」という言葉が前のめりになりすぎてしまったんだ。

 

 

 

(おれもさ、意外と考えてることたくさんあるよ。)

 

 

 

でもありがとうの意味も込めて、わざわざ反論とかそういうのはしなかった。本人からしたら間違いのないことだし。さらにさらにこういう意図も汲み取ってあげるのも、ちょーーーやさしいと思う。我ながらよくできたムスコ。

 

 

またこんな小さいことで悩んで、バカみたい。

 

 

おわり