suusan no blog

日記、短歌とか。2002年生

冬の扉

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一か月くらい前にカラスの亡骸を見た。次の日にはもう消えていた。

 

誰が、いつ、埋葬をしたのだろう、とそこの道を通るたびに思う。いや、埋葬というよりも 「処分」 の方が近いのかもしれない。

 

12月になり雪が積もってしまって、もうその場所も白く片されてしまった。きっと亡くなったカラスのことは誰も憶えていない。

 

今はまだ憶えていられるけど、いつか忘れる日が来ると思うから、ここに残しておく。お墓の代わりに、液晶の上だけど。



先週末から昨日にかけてクリスマスだったが、残念なことに、友達も、恋人もいないし、家族とも離れて暮らしているから、丸三日誰とも会わずに生活していた。ひそかにイブの日の晩ごはんを贅沢にしようと思っていたけれど、結局、昼に焼いたホットケーキのあまりと個包装のドリップコーヒーだけだった。最近、ドリップコーヒーにはまっている。ちょっとだけ大人になれた気になるのが誇らしい。

 

晩にコーヒーを飲んだせいで、全然寝付けなかった。暇だったので、本当は見たくなかったインスタグラムのストーリーをさらっと眺めることにした。知っている人と全く知らない人が一緒にケーキとか、プレゼントとか、二人だけの世界で互いに見つめ合っていて、自分が今いる6畳一間の世界とは別の世界を見ているようだった。みんな、ちゃんと今を生きていて偉いと思う。社会に染まることは簡単なようで、難しいと思う。なんというか、日々の些細なアクションひとつひとつにも選択を迫られている感じがする。複数のコミュニティに在籍し、それぞれアプローチを変えて、周りとの折り合いをつける。当たり前っちゃそうかもしれないけれど、コミュニケーション能力であったり、スケジューリング能力とか、日々過ごしていくための基礎的な「他人と生きる力」みたいなものが、こういうイベント毎に暴かれている気分になる。もう面倒くさいで片付けちゃいけないのかもしれない。誰とも関わらないでこんな小さな部屋すら出れないでいちゃ、本当はもうダメなんだと思う。

 

 

夜中は「死」みたいなもので、いつまでも思った通りに生きていけないことを教えてくれる。楽しくて、幸せだったはずの「ひとり」がこんなにも虚しく、価値のないものだと思わせる。分け合えないことはつらい。誰だってそうだ。無限にこの夜が続くような気がして、何度も寝返りをうって、ようやく眠りについたのは午前四時くらいだったと思う。

 

いつか自分にも本当の「死」がやってくる。それでも、死神が扉を開けてやってくる瞬間にも、永遠ともいえる遠い場所ではまだ自分は生きている。一昨日の、布団の中で眠れずに羊を数えている自分も、先月地面で息絶えていたカラスが生き生きと滑空している時間も、実在している。それどころか、宇宙は光速よりも速い速度で膨張する。遠い世界では、どの時間軸の自分も観測可能なのだ。たとえ心臓が動かなくなったあとでも。

 

さいころは死ぬのが怖かった。 いや、最近もだけど。でも死んでしまった自分と、生きている自分が同時に存在しているなら、「死」なんてもの、本当はないのかもしれない。

 

だから最近は誰かに「見て」いてほしいと思うようになった。いつか身体が思うように動かなくなって、なにも考えることができなくなっても、元気に生き続けられるように。そのためには、元気なうちに頑張るべきだと思う。かなり抽象的だけど、”がんばる”ことが大切。



多分、年内の投稿はこれでおしまい。


よいお年をお迎えください